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今年一年の感謝を申し上げます。

みなさま、2013年が終わろうとしています。

年の終わりになると、いつも感じることですが、下記のように思いながら反省しています。

 「今年は、充実した一年であったろうか」

「この一年で、なにかを構築することができただろうか」

 

人生の折り返し地点を、すでにターンしている者として、

次世代に継承できることに、なにかで、どこかで、だれかに関与できただろうか、

と、いつも自問自答している年の瀬です。

 2014年は、「 より深める 」といった言葉を胸に潜めながら迎えたいと思います。

今年一年。ご縁のあった、すべての皆様に健やかな新年が訪れますことをご祈念申し上げます。

深呼吸クラブ代表 : 清水正弘 


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未来への飛翔、と題したこの写真。数年前に、岡山県の王子ヶ岳という瀬戸内沿いの里山の山頂で撮影したもの。ここは、パラグライダーの基地となっている。遥か遠方には、瀬戸大橋を望むことができる絶好の展望地でもある。 [世界の街角から]

未来への飛翔、と題したこの写真。数年前に、岡山県の王子ヶ岳という瀬戸内沿いの里山の山頂で撮影したもの。ここは、パラグライダーの基地となっている。遥か遠方には、瀬戸大橋を望むことができる絶好の展望地でもある。


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取り戻す日本の季節感・おせち料理の背景 [日本の季節感を感じる風景]

おせち料理とは、正月に食べるお祝いの料理です。「おせち」とは本来、暦上の節句のことを指します。その際に食べる料理をおせち料理と呼んだため、現在では節句の一番目にあたる正月の料理を表す言葉として使われています。おせち料理は”めでたさを重ねる”という意味で縁起をかつぎ、重箱に詰めて出されます。地方や家庭ごとにお重の中身は様々です。

正月料理といえば「おせち」

おせちとはお節供〔おせちく〕の略で、年の始めにその年の豊作を祈って食べる料理や武家の祝い膳(※)、新年を祝う庶民の料理などが混ざり合って出来たものです。さらに正月三が日は主婦を家事から解放するという意味を含め、保存の効く食材が中心のものになったといわれています。またお正月に火を使うことをできるだけ避ける、という物忌みの意味も含んでいます。

※祝い膳…お正月などのおめでたい時に食べる料理の事です。正月の祝い膳には、おせち料理のほかにお屠蘇〔とそ〕、お雑煮などが挙げられます。

お節供の料理

おせち料理は五節句の料理の1つで、平安時代に宮中で行われていた「お節供」の行事に由来しています。お節供とは節日〔せちにち〕(※)に神にお供えをし、宴を開く宮中行事です。江戸時代後期に江戸の庶民がこの宮中行事を生活に取り入れ始めたのをきっかけに、全国的におせち料理の風習が広まりました。やがて節句の一番目にあたる正月にふるまわれるご馳走だけが「おせち料理」と呼ばれるようになりました。最近ではデパートやスーパーをはじめインターネットの通信販売などでも購入できます。しかしその反面、昔からの風習を大切にし手作りにこだわる家庭も多く、今もなお、おせち料理は日本の文化に根付いた伝統的な食文化として受け継がれています。

※節日…中国の暦で定められた季節の変わり目【元日(1月1日)、五節句(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)】の事です。

めでたさを重ねるという願いを込めて

おせち料理はめでたいことを重ねるという願いを込めて重箱に詰めます。基本は四段重ねで、上から順に、一の重、二の重、三の重、与の重、と呼びます。四段目のお重を「四の重」と言わないのは「四」が「死」を連想させ縁起が悪いとされているからです。 詰め方や料理の組み合わせは地域や家庭、しきたりなどによって様々ですが、最も代表的な詰め方を紹介します。

一の重…黒豆、数の子、ごまめ(田作り)などの祝い肴〔ざかな〕
二の重…伊達巻やきんとんのような甘いもの中心
三の重…魚や海老の焼き物など海の幸
与の重…野菜類の煮物などの山の幸

おせち料理に詰められる料理にはそれぞれちゃんと意味が込められています。

黒豆…一年中「まめ(まじめ)」に働き「まめ(健康的)」に暮らせるようにとの願いが込められています。
数の子…たくさんの卵があるというところから、子孫繁栄の願いが込められています。
田作り…稲の豊作を願う気持ち、五穀豊穣の願いが込められています。
海老…腰が曲がるまで丈夫という長寿の願いが込められ、海老の赤色は魔よけの色とも言われています。
昆布巻き…「よろこぶ」 の語呂合わせから祝いの儀には欠かせない食材です。
きんとん…「金団」と書き、その色から財産、富を得る縁起物とされています。
紅白なます…紅白のおめでたい色は水引を表し、紅白の組み合わせは平和を願う縁起物です。


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自分を道にあずける、同行者にあずける。道は絶対者と共にある安心に身を任せる。旅はこのように人を敬虔にする。聖地も自然も道も人を敬虔にする。 [ちょっと気になる素敵な文章]

写真: シリーズ・思考へのヒント・文章編
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自分を道にあずける、同行者にあずける。道は絶対者と共にある安心に身を任せる。旅はこのように人を敬虔にする。聖地も自然も道も人を敬虔にする。

敬虔が、歩くこと、祈ることを純粋にする。敬虔がインタービーイング(相互存在感)のドラマを誘い出す。そこに癒しと再生がもたらされる。

聖地への旅や巡礼は、物語療法と宗教療法を併せ持った自然療法である。

藤原成一氏・癒しの日本文化誌より。

自分を道にあずける、同行者にあずける。道は絶対者と共にある安心に身を任せる。旅はこのように人を敬虔にする。聖地も自然も道も人を敬虔にする。

敬虔が、歩くこと、祈ることを純粋にする。敬虔がインタービーイング(相互存在感)のドラマを誘い出す。そこに癒しと再生がもたらされる。
...
聖地への旅や巡礼は、物語療法と宗教療法を併せ持った自然療法である。

藤原成一氏・癒しの日本文化誌より。


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幸福への近道・・・。  [ちょっと気になる素敵な文章]

写真: シリーズ・思考へのヒント・言葉から
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幸福への近道・・・。 

その土地の資源性が投影された「景観」が、やがて地域に共有された価値としての「風景」となり、そして我々の精神や身体的特徴さえも深く関わる、「風土」へと深化する。そこに、「アイデンティティ」、つまり自然から得た、地域遺伝子の姿である「気質」が伴うのである。

グローバリズムとは、公平で地球上の市民として共生するための、普遍的ルールを世界に共通化するばかりでなく、その一方で、多様な人間社会の特性を相互に認め合うことである。よって文化と風景に表出したアイデンティティを喪失したならば、たちまちにして世界に漂流してしまう。

しかも時代は、文明力を競う時代から、文化力の高さが牽引する時代に突入している。工業化社会の歴史は、「物質的欲求に対する物質的充足度」による幸福の最大化を目指したものの、それが却って不幸への序章となってしまうことを証明した。

市場原理主義の余りにも暴力的な様相に、目を背けたい心理が強く働いている。今や人々は、「自己実現に割ける時間的充足度」こそ幸福への近道と考え始めている。あのヒマラヤのブータンという小国の賢明な現国王が言う、GDPではなく、GNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)の達成こそが本当だと共感しあっている。

(涌井史郎・景観と風土ー未来への宝、より抜粋)

幸福への近道・・・。 

その土地の資源性が投影された「景観」が、やがて地域に共有された価値としての「風景」となり、そして我々の精神や身体的特徴さえも深く関わる、「風土」へと深化する。そこに、「アイデンティティ」、つまり自然から得た、地域遺伝子の姿である「気質」が伴うのである。
...
グローバリズムとは、公平で地球上の市民として共生するための、普遍的ルールを世界に共通化するばかりでなく、その一方で、多様な人間社会の特性を相互に認め合うことである。よって文化と風景に表出したアイデンティティを喪失したならば、たちまちにして世界に漂流してしまう。

しかも時代は、文明力を競う時代から、文化力の高さが牽引する時代に突入している。工業化社会の歴史は、「物質的欲求に対する物質的充足度」による幸福の最大化を目指したものの、それが却って不幸への序章となってしまうことを証明した。

市場原理主義の余りにも暴力的な様相に、目を背けたい心理が強く働いている。今や人々は、「自己実現に割ける時間的充足度」こそ幸福への近道と考え始めている。あのヒマラヤのブータンという小国の賢明な現国王が言う、GDPではなく、GNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)の達成こそが本当だと共感しあっている。

(涌井史郎・景観と風土ー未来への宝、より抜粋)


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取り戻す日本の季節感・お雑煮編 [日本の季節感を感じる風景]

お雑煮は一年の無事を祈りお正月食べる伝統的な日本料理です。沖縄を除く日本各地でお雑煮を食べる風習があります。餅の形やだし、具の種類にいたるまで、地方や家庭ごとに千差万別です。

新年の豊作や家内安全の願いを込めて

お雑煮には餅がつきものです。餅は昔から日本人にとってお祝い事や特別の日に食べる「ハレ」の食べ物でした。そのため新年を迎えるにあたり、餅をついて他の産物とともに歳神様にお供えをしました。そして元日にそのお供えをお下がりとして頂くのがお雑煮です。お雑煮を食べる際には旧年の収穫や無事に感謝し、新年の豊作や家内安全を祈ります。正月三が日の祝い膳(※)には欠くことのできない料理です。
「雑煮」の語源は「煮雑〔にまぜ〕」で、いろいろな具材を煮合わせたことからきています。

※祝い膳…お正月などのおめでたい時に食べる料理の事です。正月の祝い膳には、お雑煮のほかにお屠蘇〔とそ〕、おせち料理などが挙げられます。

宴の一番肴

雑煮の歴史は古く、室町時代頃にはすでに食されていたようです。当時、武士の宴会では必ず一番初めに酒の肴〔さかな〕として雑煮が振舞われていました。すなわち雑煮は宴の一番最初に食べる縁起のよい料理で、雑煮を食べなければ宴がはじまりませんでした。この習わしをもとに、一年の始まりである元日に雑煮を食べるようになったと言われています。当時餅の原料である米は高価なものであったため、一般庶民のお雑煮には餅の代わりに里芋が入っていたようです。江戸時代に入ると、一般庶民でも簡単に餅が手に入るようになり、北海道や沖縄を除いて全国的にお雑煮で正月を祝うようになりました。味噌味としょうゆ味、丸餅と角餅などの東西のお雑煮の違いは、江戸時代からすでにあったと考えられています。(現在では北海道でもお雑煮の食文化がありますが、それは明治以後に本州から移り住んだ人々が持ち込んだと考えられています。一方、沖縄には今も雑煮文化はありません。)

東西でのお雑煮の違い

日本全国、お雑煮の形は様々です。

・餅について

関西地方では丸餅、寒冷地や東京(江戸)周辺は角餅を使う傾向があります。
江戸時代、江戸には人口が集中していました。そのため一つずつ手で丸める丸餅より、手っ取り早く数多く作れる角餅が使われたと考えられています。
一方関西では 昔から「円満」の意味を持つ縁起ものの丸餅が使われていました。
関ヶ原の合戦の影響で、岐阜県関ヶ原を境に西日本が丸餅で東日本が角餅に分れたという説もあります。

・汁の味付けについて

関西地方のお雑煮は白味噌仕立てです。東日本と近畿を除く西日本では圧倒的にすまし汁仕立てです。出雲地方や能登半島の一部などでは小豆〔あずき〕汁のお雑煮を食す地域もあります。

・具について

具はその土地の産物が入ります。ダイコン、ニンジン、ネギなどの野菜に加えて、例えば東北なら山菜やキノコ、新潟ならサケやイクラ、千葉なら海苔、島根ならハマグリ、広島なら牡蠣〔かき〕などです。山村なら山の幸、漁村なら海の幸が盛り込まれますが、逆に山間部などでは普段手に入りにくい塩ブリなどをお正月ならではのごちそうとしてお雑煮に入れることも多いようです。

日本各地の珍しいお雑煮

全国にある珍しいお雑煮を紹介します。

・岩手県

しょうゆ味の汁に焼いた角餅を入れたお雑煮です。お雑煮に入っている餅は、クルミを擦ったものに砂糖やしょうゆで味付けした甘いタレにつけて食べます。

・香川県

白味噌仕立ての汁にあんころ餅を入れたお雑煮です。ダイコン・ニンジン・サトイモ・青菜など具は家庭によっていろいろです。

・徳島県

いりこだしでしょうゆ味の汁に、具は豆腐二丁と里芋だけの餅のない簡素なお雑煮です。

奈良

味噌仕立てのお雑煮には、四角く切った豆腐とコンニャク.、輪切りにした野菜と丸餅が入れられています。お雑煮に入っている餅は甘いきな粉を付けて食べます。黄色のきな粉には豊作になるようにという願いがこめられています


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自然への気づき [ちょっと気になる素敵な文章]

写真: シリーズ・思考へのヒント・文章編
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自然への気づき

倫理も、人と人との関係、ヒューマンな環境だけを考えてきた人間本位の倫理から、ノンヒューマンな環境との関係をも同等に取り入れた倫理へと変わっていく。

動植物の生命を人間の生命と同等に畏敬し、それらと共存する全生命の相関システムにたつ倫理、ヒューマンとノンヒューマンが相互浸透しあう倫理である。

ノンヒューマンな環境は、しかも、ヒューマンな環境を笑うかのように、身辺の小世界からはるか遠くまで、無限定に広がっている。矮小な倫理に水をさすように、ノンヒューマンな環境は、園芸やガーデニングの小さな気づきや癒しに安住できない者、もっと大きな自然の声を聞こうとする者に働きかけてくる。

その野性味あるそそのかしに、自然の中へ、自然の気づきを求めて人は誘い出されてゆく。

藤原成一著(癒しの日本文化誌)

自然への気づき

倫理も、人と人との関係、ヒューマンな環境だけを考えてきた人間本位の倫理から、ノンヒューマンな環境との関係をも同等に取り入れた倫理へと変わっていく。
...
動植物の生命を人間の生命と同等に畏敬し、それらと共存する全生命の相関システムにたつ倫理、ヒューマンとノンヒューマンが相互浸透しあう倫理である。

ノンヒューマンな環境は、しかも、ヒューマンな環境を笑うかのように、身辺の小世界からはるか遠くまで、無限定に広がっている。矮小な倫理に水をさすように、ノンヒューマンな環境は、園芸やガーデニングの小さな気づきや癒しに安住できない者、もっと大きな自然の声を聞こうとする者に働きかけてくる。

その野性味あるそそのかしに、自然の中へ、自然の気づきを求めて人は誘い出されてゆく。

藤原成一著(癒しの日本文化誌)

 


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相互に存在する・・、インタービーイングとは。 [ちょっと気になる素敵な文章]

写真: シリーズ・思考へのヒント・文章編
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相互に存在する・・、インタービーイングとは。

日常や社会を維持しているのは不自然な装置であり、それに甘んじているのは不自然な病いである。不自然に対しては、ストレートな自然で向かう、これが離脱のスローガンであった。

また、それがカウンターカルチャーのエネルギーでもあった。聖なる場所への旅も、ドラッグやセックスに奔り、ピッピーに生きることも、すべてナチュラルな本性への旅、「自然」への旅であった。

まず、不自然なメインカルチャーを厭い、外部の自然に気づき、自分の内部の自然に気づく。気づきがおのずから「自然」に向けての旅にかりたてるのである。

自然や聖なるものへの気づきは、敬虔な祈りに似た行為である。旅する人やカウンターカルチャーの実践者が試みたことも、自然への祈りであった。

彼らもまた自然に気づき、今現在に気づき、敬虔に外部内部の自然の声に耳を傾けたのである。「ミー」にとらわれず、縁起生を自覚し、無(エンプティネス)を自覚し、人間と社会とだけでなく、ノンヒューマンな環境ともインタービーイング(相互に存在)してゆくこと、ここに出逢いへの敬虔な衝動がある。

藤原成一著・癒しの日本文化誌より

相互に存在する・・、インタービーイングとは。

日常や社会を維持しているのは不自然な装置であり、それに甘んじているのは不自然な病いである。不自然に対しては、ストレートな自然で向かう、これが離脱のスローガンであった。
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また、それがカウンターカルチャーのエネルギーでもあった。聖なる場所への旅も、ドラッグセックスに奔り、ピッピーに生きることも、すべてナチュラルな本性への旅、「自然」への旅であった。

まず、不自然なメインカルチャーを厭い、外部の自然に気づき、自分の内部の自然に気づく。気づきがおのずから「自然」に向けての旅にかりたてるのである。

自然や聖なるものへの気づきは、敬虔な祈りに似た行為である。旅する人やカウンターカルチャーの実践者が試みたことも、自然への祈りであった。

彼らもまた自然に気づき、今現在に気づき、敬虔に外部内部の自然の声に耳を傾けたのである。「ミー」にとらわれず、縁起生を自覚し、無(エンプティネス)を自覚し、人間と社会とだけでなく、ノンヒューマンな環境ともインタービーイング(相互に存在)してゆくこと、ここに出逢いへの敬虔な衝動がある。

藤原成一著・癒しの日本文化誌より

 


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取り戻す日本の季節感・年賀状編 [日本の季節感を感じる風景]

シリーズ・取り戻す日本の季節感・年賀状
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年始やお盆の挨拶回りなどの節目の行事が、明治維新後、郵便制度の発達と共に書状という形をとって定着していったものです。普段会うことも、連絡を取ることがなくても、過去にお世話になった人、親しかった人などと自然に心通じる機会を与えてくれるのが、この年賀状と暑中見舞いです。

郵便制度の発展を機に

昔、人々は1年を2期に分けて考えており、その始まりが正月と盆でした。人々は期の始まりに、贈答品を持って「今期もよろしく」と挨拶回りに走り、もしくは挨拶の集いに参加しました。江戸時代では、武家仲間から親戚関係、ご近所などの家を、なんと元旦から1月末まで毎日回り続ける人もいたそうです。

身分の高い人は訪問を受け、低い人は訪問回りする役でした。しかし、さすがに遠方のお宅には訪問することができないので、江戸時代の身分のある人々は飛脚便などを使って書状や贈り物を届けました。

これらの習慣が明治6年に日本のハガキ郵便配達が始まったのを機に、遠方以外の人にも挨拶状を送る習慣が広まっていきました。年賀郵便の制度は明治39年に始まり、昭和24年にはお年玉つきはがきが発売され、年賀状の普及に拍車をかけました。一方、暑中見舞いハガキを送る習慣が広まったのは大正時代のようです。

とある資料より。


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山は五感だけでなく六根を清浄にする聖なる道場、行場である。 [ちょっと気になる素敵な文章]

写真: 年末年始の読書期間に入っているが、下記のような文章、文節が星の数ほどちりばめられている書物にであっている。著者は、藤原成一氏。書籍タイトルは、「癒しの日本文化誌」。
====
泉や滝、川や海浜など、水のある場所、山や社寺の森など、大きな樹木のある土地は、聖地の中でもとりわけ心身にやさしい癒しの空間であった。

水や樹に触発され浄化されて、おのずから人はシャーマンになってゆく。さらに深い自然との融合を求めて、山中深く分け入る者もいる。

川をさかのぼり、岩を越えて、山ふところ深く入ることにつれて、汗が流れ落ちるように、体中から娑婆気が排泄され、山中の香気に洗われて心身が清浄になっていく。

山は五感だけでなく六根を清浄にする聖なる道場、行場である。そして六根清浄となった身体には、自然がもつ霊力がしみ透ってくる。自然治癒力の賦活である。

かつて山伏修験者や山林(とそう)者※注・変換文字にない※が山中にこもって呪力を身に付け、自ら癒されるとともに癒す人になって帰還してきたように、山は、内なる自然治癒力をよびさまして、人を自然の行者に変容させる。

またしても、シャーマンが内に目覚めてくる。
======
上記の文章の、「山」を「森」に変えても十分に、その意味は深められるのではないだろうか。

 

 

 

年末年始の読書期間に入っているが、下記のような文章、文節が星の数ほどちりばめられている書物にであっている。著者は、藤原成一氏。書籍タイトルは、「癒しの日本文化誌」。
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泉や滝、川や海浜など、水のある場所、山や社寺の森など、大きな樹木のある土地は、聖地の中でもとりわけ心身にやさしい癒しの空間であった。

水や樹に触発され浄化されて、おのずから人はシャーマンになってゆく。さらに深い自然との融合を求めて、山中深く分け入る者もいる。
...
川をさかのぼり、岩を越えて、山ふところ深く入ることにつれて、汗が流れ落ちるように、体中から娑婆気が排泄され、山中の香気に洗われて心身が清浄になっていく。

山は五感だけでなく六根を清浄にする聖なる道場、行場である。そして六根清浄となった身体には、自然がもつ霊力がしみ透ってくる。自然治癒力の賦活である。

かつて山伏修験者や山林(とそう)者※注・変換文字にない※が山中にこもって呪力を身に付け、自ら癒されるとともに癒す人になって帰還してきたように、山は、内なる自然治癒力をよびさまして、人を自然の行者に変容させる。

またしても、シャーマンが内に目覚めてくる。
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上記の文章の、「山」を「森」に変えても十分に、その意味は深められるのではないだろうか。
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設計の基本は3つの「土」 [ちょっと気になる素敵な文章]

 設計の基本は3つの「土」

ぼくは住まいを設計するとき、「国土」と「風土」、「郷土」という「3つの土」を基本に考えています。

まず「国土」ですが、日本は狭く、土地代がべらぼうに高い。バブルが崩壊した現在でも、大都市周辺はサラリーマンが働きづめに働いても、せいぜい30坪の土地を買うのがやっと。欧米の映画に出てくるような、門から玄関まで車で行くような邸宅など望むべくもない。

となりと軒を接するくらい密集している住宅地が多い。狭い家でいかに楽しく住むかに知恵をこらさなければならないのがふつうです。この土地の制約をどうするかが第一。むろん法律的な制約もあります。

次に「風土」。日本の自然環境は、寒さが厳しい北ヨーロッパとはまるで違う。北海道東北のごく一部を除いて、梅雨どきから9月ごろまで蒸し暑い日が続きます。日本の建築は、この「湿気」とのたたかいです。最近はともすれば軽視されがちですが、湿気をいかに制するかが建築家に課せられた大きな使命なのです。

そして「郷土」、ふるさとであり、自分をいつも迎え入れてくれる心のよりどころ。日本人ならだれしも持っている潜在的な志向───ぼく流に言うと、DNAにしみこんだ感性に呼応する家をつくるってことです。

たとえば、長年ニューヨークにいてアメリカナイズされた生活を送っていても、畳であぐらをかいたり、熱い五右衛門風呂につかって頭からザブッとお湯をかぶると、しみじみと心が癒される感じがするとか、京都に行くとなんだか安心するとか、目には見えないけれど、脈々と意識の底に流れているもの、それがすごく重要なんですね。

最近のガングロの若い子がド派手な浴衣を着ても、なんとなくしとやかに見えてしまう、そんな日本人の心の底にある伝統をどう住まいに取り込んでいくか?

ところが明治以降、我々は欧米に追いつき追い越せでハイスピードで近代化をおしすすめてきた。ことに戦後の嵐のような欧米化で、意識や文化までも右ならえとまねてきたわけだけれど、根っこの部分、つまり「土」の部分は、日本人であることをまぬがれないわけです。なのにカタチだけ欧米の住宅になって、暮らしや感性、家族のありかたと住まいとがチグハグになっているのが現在の姿だと思うんですよ。

天野彰氏・建築家
1943年愛知県生まれ。日本大学理工学部経営工学建築学科を卒業。1967年に一級建築士事務所アトリエ4A設立。74年、建築家集団「日本住改善委員会」を組織し、以来一貫して生活に密着した住まいづくりやリフォームを追究している。

写真: シリーズ・思考へのヒント・文章編
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設計の基本は3つの「土」

ぼくは住まいを設計するとき、「国土」と「風土」、「郷土」という「3つの土」を基本に考えています。

まず「国土」ですが、日本は狭く、土地代がべらぼうに高い。バブルが崩壊した現在でも、大都市周辺はサラリーマンが働きづめに働いても、せいぜい30坪の土地を買うのがやっと。欧米の映画に出てくるような、門から玄関まで車で行くような邸宅など望むべくもない。

となりと軒を接するくらい密集している住宅地が多い。狭い家でいかに楽しく住むかに知恵をこらさなければならないのがふつうです。この土地の制約をどうするかが第一。むろん法律的な制約もあります。

次に「風土」。日本の自然環境は、寒さが厳しい北ヨーロッパとはまるで違う。北海道や東北のごく一部を除いて、梅雨どきから9月ごろまで蒸し暑い日が続きます。日本の建築は、この「湿気」とのたたかいです。最近はともすれば軽視されがちですが、湿気をいかに制するかが建築家に課せられた大きな使命なのです。

そして「郷土」、ふるさとであり、自分をいつも迎え入れてくれる心のよりどころ。日本人ならだれしも持っている潜在的な志向───ぼく流に言うと、DNAにしみこんだ感性に呼応する家をつくるってことです。

たとえば、長年ニューヨークにいてアメリカナイズされた生活を送っていても、畳であぐらをかいたり、熱い五右衛門風呂につかって頭からザブッとお湯をかぶると、しみじみと心が癒される感じがするとか、京都に行くとなんだか安心するとか、目には見えないけれど、脈々と意識の底に流れているもの、それがすごく重要なんですね。

最近のガングロの若い子がド派手な浴衣を着ても、なんとなくしとやかに見えてしまう、そんな日本人の心の底にある伝統をどう住まいに取り込んでいくか?

ところが明治以降、我々は欧米に追いつき追い越せでハイスピードで近代化をおしすすめてきた。ことに戦後の嵐のような欧米化で、意識や文化までも右ならえとまねてきたわけだけれど、根っこの部分、つまり「土」の部分は、日本人であることをまぬがれないわけです。なのにカタチだけ欧米の住宅になって、暮らしや感性、家族のありかたと住まいとがチグハグになっているのが現在の姿だと思うんですよ。

天野彰氏・建築家
1943年愛知県生まれ。日本大学理工学部経営工学建築学科を卒業。1967年に一級建築士事務所アトリエ4A設立。74年、建築家集団「日本住改善委員会」を組織し、以来一貫して生活に密着した住まいづくりやリフォームを追究している。


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ケアと「自然のスピリチュアリティー」 [ちょっと気になる素敵な文章]

ケアと「自然のスピリチュアリティー」

 やや概念的な整理になりますが、ケアとはいったい何かと考えてみると、個人は決してばらばらな存在ではなくコミュニティーに支えられていて、しかしコミュニティーも真空の中に存在しているのではなく、それを取り巻く自然・環境の中にあるといえます。もともとこういうものは一体的なものであったと。

そしてさらに、自然の底にスピリチュアリティーが存在するのではないか。このスピリチュアリティーという点は後でまたご説明いたします。 こうした理解を踏まえると、ケアというのは、ともすればばらばらになってしまいがちな個人を、その底にあるコミュニティーや自然、さらにはスピリチュアリティーの次元に、いわばつないでいくことに本質的な意味があるのではないか。言い換えますと、個人の中にこういったコミュニティーや自然やスピリチュアリティーというようなものを回復していく、ということに意味があるのではないか、という考えです。

 それで今日のお話とも関係してくるのですが、自然とスピリチュアリティーに関して、「自然のスピリチュアリティー」というコンセプトが考えられないか。 「自然のスピリチュアリティー」というと少し聞きなれないですが、キリスト教や仏教などの、高次宗教と呼ばれる言語化・体系化された宗教では、スピリチュアリティーは非常に理念的な「永遠」・「涅槃」・「空」というように抽象化された概念として考えられています。

これに対して、日本を含む地球上の各地域・文化圏におけるもっとも基層にある伝統的な自然観においては、「風の神様」「山の神様」「八百万(やおよろず)の神様」といったように、スピリチュアリティーは具体的な自然と一体のものとして考えられるわけです。

 こういう視点をケアと融合していくことができないか。言い換えますと、ケアに関わる3つの領域、すなわち第一に医療福祉、第二に環境・自然、第三に日本人の死生観の3つの層にスピリチュアリティーや広い意味での宗教という、ともすれば別個に考えられていたものをもう少し融合させていくということで新しいケアの形が拓けるのではないか、という問題意識です。


 具体的には、社会資源として環境・自然・神社・お寺というものに、私たちの研究会は注目いたしました。日本各地のいろいろなところに、緑地・里山・農地は残っています。神社やお寺もたくさんあります。それらを社会資源として見直して、ケアとの関連で新しい利用形態を考えていけないか。医療・福祉以外の様々な人びとが集まる場所ですし、こうした場所は、幸か不幸か高度成長期には半ば忘れられていた、人びとの意識の関心の中心から外れていたところにあった存在です。よくいえば開発を免れた、都会の中に静かな空間がポッと残っていたりします。


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これが、中国の活力源? [世界の街角から]

写真: シリーズ・写真で伝える世界の今・成都の朝編
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これが、中国の活力源?

この写真は、1日の始まりである朝の風景なのです。さすがに、中国ですね・・。朝から豚肉の需要はあるのですね・・。今の日本の衛生観念からすると、あまりほめられた売り場ではないのでしょうが、しかし、活気という意味からは、下記の写真のようなお兄さんの存在は、肉そのものの味も増幅してくれるかのようです。

日本のように、食の世界があまりにも、システム化されすぎると、食材本来のエネルギー、といったものが、損失された売り場になるのかもしれないですね。エネルギーを失った食材を摂取する国民の底力も減少する傾向にあるのかも・・・・?

これが、中国の活力源?

この写真は、1日の始まりである朝の風景なのです。さすがに、中国ですね・・。朝から豚肉の需要はあるのですね・・。今の日本の衛生観念からすると、あまりほめられた売り場ではないのでしょうが、しかし、活気という意味からは、下記の写真のようなお兄さんの存在は、肉そのものの味も増幅してくれるかのようです。

日本のように、食の世界があまりにも、システム化されすぎると、食材本来のエネルギー、といったものが、損失された売り場になるのかもしれないですね。エネルギーを失った食材を摂取する国民の底力も減少する傾向にあるのかも・・・・?


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日本の養生場・深呼吸する石段編 [世界の街角から]

写真: シリーズ・日本の養生場・深呼吸する石段編
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坂の町・尾道・

ここは、西国寺という素敵なお寺の裏山です。このような、三重の塔まで、境内を歩いてゆき、そして、三重塔の横手から伸びてゆく、小さな小道を登ってゆきます。約15分程度の小道が、頂上にある大きな岩まで続いています。その小路の路傍に、素敵な石仏群があるのです。

西国寺までは訪れる人も多いのですが、その裏山まで入る人はほとんどいません。それだけに、ちょっと隠れた深呼吸すスポットなのです。(事務局)

 日本の養生場・深呼吸する石段編
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坂の町・尾道

ここは、西国寺という素敵なお寺の裏山です。このような、三重の塔まで、境内を歩いてゆき、そして、三重塔の横手から伸びてゆく、小さな小道を登ってゆきます。約15分程度の小道が、頂上にある大きな岩まで続いています。その小路の路傍に、素敵な石仏群があるのです。

西国寺までは訪れる人も多いのですが、その裏山まで入る人はほとんどいません。それだけに、ちょっと隠れた深呼吸すスポットなのです。(事務局)


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湖上の聖地(ネパール・ポカラ) [世界の街角から]

写真: シリーズ・世界の養生場・湖上の聖地(ネパール・ポカラ)
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ヒマラヤ山麓フェワ湖上、早朝6時前頃から、浮島への巡礼舟が動き始める。

動画も併せてご覧下さい。下記のアドレスをクリック下さい。
http://jp.youtube.com/watch?v=LIfCQtP22CI

世界の養生場・湖上の聖地(ネパール・ポカラ)
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ヒマラヤ山麓フェワ湖上、早朝6時前頃から、浮島への巡礼舟が動き始める。

動画も併せてご覧下さい。下記のアドレスクリック下さい。
http://jp.youtube.com/watch?v=LIfCQtP22CI


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悔いなく生き切るための生命学 [ちょっと気になる素敵な文章]

写真: シリーズ・思考へのヒント・文章編
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悔いなく生き切るための生命学

生命学とは、何かの生きづらさをかかえた人が、限りある人生を、他者とともに、悔いなく生き切るために何をすればよいのかを、自分をけっして棚上げにすることなく探求しながら生きていく営みのことである。

これは、生命学の基本的発想よりも、かなり踏み込んだ内容になっている。私がいままで考え続けてきたことを凝縮すると、このような表現となるのである。「悔いなく生き切るための生命学」は、森岡の生命学だけではなく、それ以外の人々の生命学をも含み得るが、ここでは暫定的に森岡の生命学をもってそれを代表させて論じていくことにしたい。

以下、「悔いなく生き切るための生命学」という言葉を使っていくが、とくに森岡個人の営みを強調する必要があるときには、「森岡の生命学」という言葉を使って、それを「悔いなく生き切るための生命学」一般から区別したいと思う。(したがって、厳密に言えば、「悔いなく生き切るための生命学」とは、森岡の生命学をも含めたいくつかの生命学を、同じ種類のものとしてグルーピングしたときの名称であるということになる。

また、他の種類の生命学、たとえば「競争せずに生きていく生命学」のようなものも構想可能であり、それは、そのように生きたいと願う複数の人々の生命学を内包することになるだろう)。

 では、上記の定義について、ひとつずつ順番に考えていきたい。

まず、「何かの生きづらさをかかえた人」という箇所について。そもそも、私はなぜ生命について深く考えようとするのだろうか。もちろん、生命というものに強い知的関心があるというのは、理由のひとつである。

人間の生命や、生物学的な現象には、不可思議なことが多く、それを解明してみたいという知的好奇心が存在するのは確かである。しかしながら、動機はそれだけではない。それよりもさらに強い動機があった。それは、この社会のなかで、私がこのような状況で生きていくことが、とてもつらかったからである。

だから、私が生きていくとはどういうことなのかを、深く突き詰めて考えざるを得なかったのだ。私の生きづらさとはいったい何なのかを確かめたい、私の生きづらさがどうして生まれてきているのかを知りたい、そして私の生きづらさを解決する道を探したいという思いがあったのである。

 悔いなく生き切るための生命学は、なによりもまず、「生きづらさ」をいま抱えている人が主人公となる生命学である。だから、自分を棚上げにしないということが、とくに重要となる。真の問題は、生きづらさをかかえたこの私なのだから、自分を棚上げにしていては話が進まないのである。

「生きづらさ」は、単に「つらいこと」とは異なる。お腹をすかしたまま仕事をするのは「つらい」が、ご飯を食べればそれは解消する。「生きづらさ」は、そう簡単には解消しない。それは、この社会で私がいままで生きてきたこと全体にかかわるような「つらさ」である。

「生きづらさ」は、社会のなかのマイノリティの人々から発せられることが多い。経済的なハンディがあったり、負のレッテルを貼られたり、大多数とは異なった嗜好を生まれつきもっていたり、構造的に差別されたり搾取されたりする人々の口から、「生きづらさ」の言葉が発せられてきた。

しかしそれと同時に私が思うのは、社会のなかのマジョリティと思われているような人々や、加害者側であると思われているような人々もまた、別種の「生きづらさ」をかかえている場合があるということである。それは、マイノリティとはまた異なった種類の「生きづらさ」である。だが、それもまた「生きづらさ」であることに違いはない。この社会は、マイノリティも、マジョリティも、ともに「生きづらさ」をかかえながら、マジョリティがマイノリティを支配している社会なのである。

 悔いなく生き切るための生命学

生命学とは、何かの生きづらさをかかえた人が、限りある人生を、他者とともに、悔いなく生き切るために何をすればよいのかを、自分をけっして棚上げにすることなく探求しながら生きていく営みのことである。

これは、生命学の基本的発想よりも、かなり踏み込んだ内容になっている。私がいままで考え続けてきたことを凝縮すると、このような表現となるのである。「悔いなく生き切るための生命学」は、森岡の生命学だけではなく、それ以外の人々の生命学をも含み得るが、ここでは暫定的に森岡の生命学をもってそれを代表させて論じていくことにしたい。

以下、「悔いなく生き切るための生命学」という言葉を使っていくが、とくに森岡個人の営みを強調する必要があるときには、「森岡の生命学」という言葉を使って、それを「悔いなく生き切るための生命学」一般から区別したいと思う。(したがって、厳密に言えば、「悔いなく生き切るための生命学」とは、森岡の生命学をも含めたいくつかの生命学を、同じ種類のものとしてグルーピングしたときの名称であるということになる。

また、他の種類の生命学、たとえば「競争せずに生きていく生命学」のようなものも構想可能であり、それは、そのように生きたいと願う複数の人々の生命学を内包することになるだろう)。

では、上記の定義について、ひとつずつ順番に考えていきたい。

まず、「何かの生きづらさをかかえた人」という箇所について。そもそも、私はなぜ生命について深く考えようとするのだろうか。もちろん、生命というものに強い知的関心があるというのは、理由のひとつである。

人間の生命や、生物学的な現象には、不可思議なことが多く、それを解明してみたいという知的好奇心が存在するのは確かである。しかしながら、動機はそれだけではない。それよりもさらに強い動機があった。それは、この社会のなかで、私がこのような状況で生きていくことが、とてもつらかったからである。

だから、私が生きていくとはどういうことなのかを、深く突き詰めて考えざるを得なかったのだ。私の生きづらさとはいったい何なのかを確かめたい、私の生きづらさがどうして生まれてきているのかを知りたい、そして私の生きづらさを解決する道を探したいという思いがあったのである。

悔いなく生き切るための生命学は、なによりもまず、「生きづらさ」をいま抱えている人が主人公となる生命学である。だから、自分を棚上げにしないということが、とくに重要となる。真の問題は、生きづらさをかかえたこの私なのだから、自分を棚上げにしていては話が進まないのである。

「生きづらさ」は、単に「つらいこと」とは異なる。お腹をすかしたまま仕事をするのは「つらい」が、ご飯を食べればそれは解消する。「生きづらさ」は、そう簡単には解消しない。それは、この社会で私がいままで生きてきたこと全体にかかわるような「つらさ」である。

「生きづらさ」は、社会のなかのマイノリティの人々から発せられることが多い。経済的なハンディがあったり、負のレッテルを貼られたり、大多数とは異なった嗜好を生まれつきもっていたり、構造的に差別されたり搾取されたりする人々の口から、「生きづらさ」の言葉が発せられてきた。

しかしそれと同時に私が思うのは、社会のなかのマジョリティと思われているような人々や、加害者側であると思われているような人々もまた、別種の「生きづらさ」をかかえている場合があるということである。それは、マイノリティとはまた異なった種類の「生きづらさ」である。だが、それもまた「生きづらさ」であることに違いはない。この社会は、マイノリティも、マジョリティも、ともに「生きづらさ」をかかえながら、マジョリティがマイノリティを支配している社会なのである。


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霊性の原風景(ガイアシンフォニー7番の序説から) [ちょっと気になる素敵な文章]

写真: リーズ・思考へのヒント・文章編
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霊性の原風景(ガイアシンフォニー7番の序説から)

簡素で、気品があり、それ故に美しい日本神道の様々な神事の形象(かたち)。その美しい形象の背後には、私達の祖先が、はるか縄文時代から受け継ぎ、数千年に渡って洗練させて来た、わが国独自の自然観があります。

自然の全ての現象には、宇宙の大いなる意思の現れである八百万神(やおよろずのかみ)が宿り、私達人間もまた、その宇宙の大いなる意志に依って“生かされている”という自然観です。この自然観は、母なる星地球(ガイア)はひとつの大きな生命体であり、私達人間はその大きな生命の一部分として“生かされている”という「ガイア理論」に通じるものです。

「第七番」では、この自然観の甦りを願って、神道の神事の様々な形象に目を向けてみます。神道の源流には、今から5000年以上も前、我が日本列島に住み始めた祖先達の、大自然の見えない力に対する畏れと感謝の思いがあります。

霊性の原風景(ガイアシンフォニー7番の序説から)

簡素で、気品があり、それ故に美しい日本神道の様々な神事の形象(かたち)。その美しい形象の背後には、私達の祖先が、はるか縄文時代から受け継ぎ、数千年に渡って洗練させて来た、わが国独自の自然観があります。
...
自然の全ての現象には、宇宙の大いなる意思の現れである八百万神(やおよろずのかみ)が宿り、私達人間もまた、その宇宙の大いなる意志に依って“生かされている”という自然観です。この自然観は、母なる星地球(ガイア)はひとつの大きな生命体であり、私達人間はその大きな生命の一部分として“生かされている”という「ガイア理論」に通じるものです。

「第七番」では、この自然観の甦りを願って、神道の神事の様々な形象に目を向けてみます。神道の源流には、今から5000年以上も前、我が日本列島に住み始めた祖先達の、大自然の見えない力に対する畏れと感謝の思いがあります。


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出雲大社一般公開・本殿の回廊を巡っている参拝者。 [世界の街角から]

写真: シリーズ・深呼吸タイム・出雲大社編
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出雲大社一般公開・本殿の回廊を巡っている参拝者。

今年は、出雲大社の遷宮の年にあたります。この遷宮・・、大社の神様を祀る本殿の屋根を葺き替える為に、ご神体を別の場所に遷すのです。それが60年に一度おこなわれる儀式なのです。60年に一度、ということはほとんどの人が、「人生にたった一度だけ」の出来事なのではないでしょうか・・。

なんたら彗星が地球に接近する・・、とか、ちょっと前までの阪神タイガースが00年に一度だけ優勝する、とか、世の中には何十年に一度だけという出来事がありますね。しかし、この出雲大社の遷宮は、そんじゅうそこらの出来事とは比較になりません。

なんたって、出雲大社は縁結びの神様というだけでなく、日本の国造り神話の故郷でもあるのです。その日本の歴史に大きく関わる儀式のひとつが、この「遷宮」なのです。この一般公開の様子も60年に一度の写真となることでしょう。

 出雲大社一般公開・本殿の回廊を巡っている参拝者。

今年は、出雲大社の遷宮の年にあたります。この遷宮・・、大社の神様を祀る本殿の屋根を葺き替える為に、ご神体を別の場所に遷すのです。それが60年に一度おこなわれる儀式なのです。60年に一度、ということはほとんどの人が、「人生にたった一度だけ」の出来事なのではないでしょうか・・。

なんたら彗星が地球に接近する・・、とか、ちょっと前までの阪神タイガースが00年に一度だけ優勝する、とか、世の中には何十年に一度だけという出来事がありますね。しかし、この出雲大社の遷宮は、そんじゅうそこらの出来事とは比較になりません。

なんたって、出雲大社は縁結びの神様というだけでなく、日本の国造り神話の故郷でもあるのです。その日本の歴史に大きく関わる儀式のひとつが、この「遷宮」なのです。この一般公開の様子も60年に一度の写真となることでしょう。


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日本で使われる単位数について その2 [ちょっと気になる素敵な文章]

写真: シリーズ・思考へのヒント・資料編
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日本で使われる単位数について その2
<下の位>
10の-1乗…=分(ぶ)
10の-2乗…=厘(りん)
10の-3乗…=毛(もう)
10の-4乗…=糸(し)
10の-5乗…=忽(こつ)
10の-6乗…=微(び)
10の-7乗…=繊(せん)
10の-8乗…=沙(しゃ)
10の-9乗…=塵(じん)
10の-10乗=埃(あい)
10の-11乗=渺(びょう)
10の-12乗=漠(ばく)
10の-13乗=模糊(もこ)
10の-14乗=逡巡(しゅんじゅん)
10の-15乗=須臾(しゅゆ)
10の-16乗=瞬息(しゅんそく)
10の-17乗=弾指(だんし)
10の-18乗=刹那(せつな)
10の-19乗=六徳(りっとく)
10の-20乗=空虚(くうきょ)
10の-21乗=清浄(せいじょう)

=========
この資料をみているだけで、いろんなことへの思索が広がるきがしないだろうか? 曖昧模糊という「模糊」はここからきている。物事に悩み逡巡する、この逡巡もここから・・。そして、空虚の先には、清浄があるという・・・。

 日本で使われる単位数について その2
<下の位>
10の-1乗…=分(ぶ)
10の-2乗…=厘(りん)
10の-3乗…=毛(もう)
10の-4乗…=糸(し)
10の-5乗…=忽(こつ)
10の-6乗…=微(び)
10の-7乗…=繊(せん)
10の-8乗…=沙(しゃ)
10の-9乗…=塵(じん)
10の-10乗=埃(あい)
10の-11乗=渺(びょう)
10の-12乗=漠(ばく)
10の-13乗=模糊(もこ)
10の-14乗=逡巡(しゅんじゅん)
10の-15乗=須臾(しゅゆ)
10の-16乗=瞬息(しゅんそく)
10の-17乗=弾指(だんし)
10の-18乗=刹那(せつな)
10の-19乗=六徳(りっとく)
10の-20乗=空虚(くうきょ)
10の-21乗=清浄(せいじょう)

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この資料をみているだけで、いろんなことへの思索が広がるきがしないだろうか? 曖昧模糊という「模糊」はここからきている。物事に悩み逡巡する、この逡巡もここから・・。そして、空虚の先には、清浄があるという・・・。


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日本の養生場・奥出雲・湯野神社 [世界の街角から]

写真: シリーズ・日本の養生場・奥出雲・湯野神社
=======

 湯野神社に参拝する、地元の老女・・。
 突然現れた彼女の後ろ姿を数十枚撮影していた。
 決して、ストーカーではないが・・。
いわゆる、「絵になる」構図であった。

この神社は、松本清張の名作・砂の器の冒頭に出てくる神社である。

 日本の養生場・奥出雲・湯野神社
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湯野神社に参拝する、地元の老女・・。
突然現れた彼女の後ろ姿を数十枚撮影していた。
決して、ストーカーではないが・・。
いわゆる、「絵になる」構図であった。

この神社は、松本清張の名作・砂の器の冒頭に出てくる神社である。


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日本で使われる単位数について その1 [ちょっと気になる素敵な文章]

写真: シリーズ・思考へのヒント・資料編
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日本で使われる単位数について その1

<上の位>
1…………=一(いち)
10………=十(じゅう)
10の2乗…=百(ひゃく)
10の3乗…=千(せん)
10の4乗…=万(まん)
10の8乗…=億(おく)
10の12乗=兆(ちょう)
10の16乗=京(けい)
10の20乗=垓(がい)
10の24乗=禾予(じょ)
10の28乗=穣(じょう)
10の32乗=溝(こう)
10の36乗=澗(かん)
10の40乗=正(せい)
10の44乗=載(さい)
10の48乗=極(ごく)
10の52乗=恒河沙(ごうがしゃ)
10の56乗=阿僧祇(あそうぎ)
10の60乗=那由多(なゆた)
10の64乗=不可思議(ふかしぎ)
10の68乗=無量大数(むりょうたいすう)

【注】
・ 恒河沙は「ガンジス川の無数の砂」という意味。
・ 阿僧祇は「(仏法の言葉で)数えられない無量無数」という  意味。
・ 那由多は「(サンスクリット語で)極めて大きな数量」とい  う意味。

=============
この資料提示は、本日、偶然に読み直している、井上靖著の小説・「星と祭」のヒマラヤ編の記述に、「永劫」という言葉についての問答場面があり、「劫」について知らべてみたら、劫は、時間の概念のひとつであり、上記の10の64乗=不可思議、に相当し、現代の時間軸でいえば、4億6千年前後くらいのスパーンになるということがわかった。

 日本で使われる単位数について その1

<上の位>
1…………=一(いち)
10………=十(じゅう)
10の2乗…=百(ひゃく)
10の3乗…=千(せん)
10の4乗…=万(まん)
10の8乗…=億(おく)
10の12乗=兆(ちょう)
10の16乗=京(けい)
10の20乗=垓(がい)
10の24乗=禾予(じょ)
10の28乗=穣(じょう)
10の32乗=溝(こう)
10の36乗=澗(かん)
10の40乗=正(せい)
10の44乗=載(さい)
10の48乗=極(ごく)
10の52乗=恒河沙(ごうがしゃ)
10の56乗=阿僧祇(あそうぎ)
10の60乗=那由多(なゆた)
10の64乗=不可思議(ふかしぎ)
10の68乗=無量大数(むりょうたいすう)

【注】
・ 恒河沙は「ガンジス川の無数の砂」という意味。
・ 阿僧祇は「(仏法の言葉で)数えられない無量無数」という  意味。
・ 那由多は「(サンスクリット語で)極めて大きな数量」とい  う意味。

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この資料提示は、本日、偶然に読み直している、井上靖著の小説・「星と祭」のヒマラヤ編の記述に、「永劫」という言葉についての問答場面があり、「劫」について知らべてみたら、劫は、時間の概念のひとつであり、上記の10の64乗=不可思議、に相当し、現代の時間軸でいえば、4億6千年前後くらいのスパーンになるということがわかった。


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文学する少女・広島県鞆の浦編 [世界の街角から]

写真: シリーズ・深呼吸タイム・文学する少女・広島県鞆の浦編
=======
午後の日差しに、柔らかく揺れる入り江の係留船・・。

こんな午後には、写真のような少女が似合います。日本にも、まだまだこのような女子中学生がいるのですね・・。感動しました。

少女よ、おおいに文学してください!

文学する少女・広島県鞆の浦編
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午後の日差しに、柔らかく揺れる入り江の係留船・・。

こんな午後には、写真のような少女が似合います。日本にも、まだまだこのような女子中学生がいるのですね・・。感動しました。

少女よ、おおいに文学してください!


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『いのち』の帰還する場所  [ちょっと気になる素敵な文章]

写真: シリーズ・思考へのヒント・文章編
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『いのち』の帰還する場所 

修験や巡礼におもむく人々は、険しい道を一歩一歩登りつつ、その苦しい息遣いの中にこそ、自分の有限生命が無限生命の中に呑み込まれてゆくことを体感していたのではないだろうか。

生と死をもつ小さな生命を数珠つなぎに繋ぎ止める大きな生命、それが山だ。山こそ、すべての生命のふるさと・・・、日本人は太古の昔から、そのように感じ取ってきたのである。(中略)

葬式仏教と揶揄される現代の日本仏教が、魂の原郷である山岳に帰還し、人間中心主義に冒されない、ホリスティックな精神性を獲得すれば、とかく方向性を見失いがちの現代文明人にも、大きな救いとなるはずである。

仏教には、まだまだ地球文明に貢献しうる精神遺産が包含されていると確信しているが、そのためにも、(いのち)の山奥深くに帰還し、今ひとたびの脱皮を遂げるべきだろう。

(町田宗鳳著・山の霊力)

 『いのち』の帰還する場所 

修験や巡礼におもむく人々は、険しい道を一歩一歩登りつつ、その苦しい息遣いの中にこそ、自分の有限生命が無限生命の中に呑み込まれてゆくことを体感していたのではないだろうか。

生と死をもつ小さな生命を数珠つなぎに繋ぎ止める大きな生命、それが山だ。山こそ、すべての生命のふるさと・・・、日本人は太古の昔から、そのように感じ取ってきたのである。(中略)

葬式仏教と揶揄される現代の日本仏教が、魂の原郷である山岳に帰還し、人間中心主義に冒されない、ホリスティックな精神性を獲得すれば、とかく方向性を見失いがちの現代文明人にも、大きな救いとなるはずである。

仏教には、まだまだ地球文明に貢献しうる精神遺産が包含されていると確信しているが、そのためにも、(いのち)の山奥深くに帰還し、今ひとたびの脱皮を遂げるべきだろう。

町田宗鳳著・山の霊力)


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絶対的な座標軸をもつこととは・・。  [ちょっと気になる素敵な文章]

写真: シリーズ・思考へのヒント・言葉
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絶対的な座標軸をもつこととは・・。 

人間は、生きていく上で様々な事態に出遭う。時には困難と向き合わなければならない。

銀のスプーンをくわえて生まれてきたとしても、どんなに風光明媚な場所で暮らしていたとしても、難事の連続であるという人生の本質や、この世で生きることの辛苦から逃れることはできないのだ。

だが、絶対的な座標軸ーたとえば「喜びや美の基準」といったものさしーが自分の中にあれば、日々の難事や苦しみは、ずいぶんとやわらぐものである。

これは、あくまでも自分のものさしだ、という点に強みがある。世評や人気といったような、他人を介在させるものさしではない。浮世の表面的なこととは関係がない。

自己の体験から生まれた独自の軸なので、揺らぐことなく自分を内側から支えてくれる。

絶対的な座標軸の存在が、その人にとって、生きるということの決め手になるのだと思う。人生の苦しみを緩和し、さらには、世界の美しさや楽しさに目を向けさせてくれるような、生きる秘訣となるのではないだろうか。

この世はままならぬことばかりである。自分の理想とはほど遠い現状に憤慨や焦燥、諦念を覚えることも少なくはない。

だが、座標軸があれば、周りがどう思おうと関係ない、という潔い強さを持てる。「周りがどうあろうと、自分の中から光を発し続けていればいいのだ」という域に達することができるのだ。

その光源たり得るものとして、音楽はある。

(茂木健一郎・すべては音楽から生まれる、より抜粋)

絶対的な座標軸をもつこととは・・。 

人間は、生きていく上で様々な事態に出遭う。時には困難と向き合わなければならない。
...
銀のスプーンをくわえて生まれてきたとしても、どんなに風光明媚な場所で暮らしていたとしても、難事の連続であるという人生の本質や、この世で生きることの辛苦から逃れることはできないのだ。

だが、絶対的な座標軸ーたとえば「喜びや美の基準」といったものさしーが自分の中にあれば、日々の難事や苦しみは、ずいぶんとやわらぐものである。

これは、あくまでも自分のものさしだ、という点に強みがある。世評や人気といったような、他人を介在させるものさしではない。浮世の表面的なこととは関係がない。

自己の体験から生まれた独自の軸なので、揺らぐことなく自分を内側から支えてくれる。

絶対的な座標軸の存在が、その人にとって、生きるということの決め手になるのだと思う。人生の苦しみを緩和し、さらには、世界の美しさや楽しさに目を向けさせてくれるような、生きる秘訣となるのではないだろうか。

この世はままならぬことばかりである。自分の理想とはほど遠い現状に憤慨や焦燥、諦念を覚えることも少なくはない。

だが、座標軸があれば、周りがどう思おうと関係ない、という潔い強さを持てる。「周りがどうあろうと、自分の中から光を発し続けていればいいのだ」という域に達することができるのだ。

その光源たり得るものとして、音楽はある。

(茂木健一郎・すべては音楽から生まれる、より抜粋)


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