So-net無料ブログ作成
検索選択

右田ヶ岳2 [ヘルスツーリズム実践報告・山や旅の報告レポート集]

IMG_7771.jpg

いよいよ、ロックガーデンのようなスカイライン道のスタートです。

IMG_7778.jpg

おお、いきなり、こんな巨石の横を通過します。


自然との交流の仕方 [ちょっと気になる素敵な文章]

とりわけ日本には原生的な自然はほとんど存在しない。日本の山や谷には昔からそこにク暮らす人々が分け入り、自然が人間の立ち入りを拒むことはなかった。そして、自然との交流の仕方を人間が変えたとき、自然も変容していった。

とすると、現在の損傷されつづける自然の問題は、そういう交流する人間の問題として、そのような自然と人間の交通=労働の問題として考察されなければならないのではないだろうか。

ところで、私のような釣り人は村人にとって、一面では都会から来る大事な客であり、同時に好ましくない客である。なぜなら村人には私たちは自然を荒らす人間のようにみえる。

ところが、都会の人間は反論する。確かに自然との付き合い方をわきまえぬ少数の不心得者は、私たちのなかにいるかもしれない。しかし自然を回復不可能なまでに損傷させてしまった主要な原因は、開発であり森林の伐採などであったはずだ。

それを進めてきた責任の一端は村人にもあるのではないか、と。ここに釣り人と村人の間に、自然を荒らす犯人をめぐって長い論争が生じている。

この論争の奥には都市の「稼ぎ人」たちに対するぬぐいがたき不信感が、村人にはあるのである。それは自然との交流の仕方の違うものたちへの不信感である。

村の老人たちは山に入るときには鉈やノコギリを下げて、自然の生命力が高まるように手当てしてゆく。人間が山に入ること、それは山から収奪することであるとともに自然を育てることでもある。それが昔からの山に暮らす者の自然との交流の仕方である。

thumb5.jpg

しかし、都会から来た人間達はそんなことはしない。釣り人は川から魚を収奪するだけであって、釣りの合間に山の道を直したり、木に絡まった蔓をはずすなどはあり得ない。とすると村人と都会の釣り人は自然との交流の仕方が全く異なっていることになる。それが自然の生命力を高めることをしない都会の釣り人に対する、根源的な不信感になっているのである。

(内山節・自然と人間の哲学)



はじめは清らかに単純だ! [ちょっと気になる素敵な文章]

 simages.jpg

 

はじめは、清らかに、単純だ。

美しく、しずまった森。神託によって定められた聖域が氏族生活の中心だ。

その秘められた場所に、ひそかに超自然のエネルギーがおりてくる。

それにつながり、受け取ることをぬきにして、彼らの生活の原動力を考えることはできない。

そびえたつ一本の木。

それは、神がえらんだ道。神の側からの媒体である。

この神聖な架け橋に対して、人間は石を置いた。

それは、見えない存在へ呼びかける意志の集中点。手がかりである。

自然木と自然石、それが神と人間の交流の初源的な回路なのだ。

この素朴な段階でこそ、神と人間は相互に最も異質でありながら、また緊密だった。人間は徹底的に畏れ、信じた。

(岡本太郎・神と木と石より抜粋)


清水代表・企画監修同行・最新案内・その6 [ヘルスツーリズム企画案内(里地・里山歩き)]

IMG_0010.jpg

左の企画はすでに終了していますが、右の企画はまだ募集中です。


里山登山学校・右田ヶ岳1 [ヘルスツーリズム実践報告・山や旅の報告レポート集]

昨日、里山登山学校の行事にて、防府にある右田ヶ岳に行ってきました。非常に天気に恵まれ、日中の最高気温が15度と、暖かな一日でした。シリーズでその様子をお届けしましょう!

IMG_7765.jpg

天徳寺の境内から登山がスタートするのです。この山は、岩場が連続する、スカイラインの尾根歩きなのです。まずは、樹林帯の中から・・。

IMG_7768.jpg


清水代表の書籍が宅配サービスで!! [清水代表に関連する記事]

IMG.jpg

本日の中国新聞11面に、清水代表の書籍宅配サービスで!という記事が掲載されています。ぜひ、中国新聞をご再読ください。(事務局)


桜が咲く!!防府天満宮にて [ヘルスツーリズム実践報告・山や旅の報告レポート集]

本日、里山登山学校の行事にて山口県に出かけていました。山のあとに立ち寄った、防府天満宮にて、「しだれ桜」が、綺麗に咲いておりました。日本の春も近い!元気だして行こうよ!

IMG_7904.jpg

IMG_7903.jpg


知の巨人とともに同窓会 [ヘルスツーリズム実践報告・山や旅の報告レポート集]

昨日、大阪の民族学博物館にての、梅棹忠夫展に行ってきました。初代・民族学博物館の館長さんです。私が、大阪にいた頃、この知の巨人を招いての座談会を主催したことがあります。

大阪の料亭にての設定でしたが、さすがに、緊張いたしました。京都大学の人類学・民族学の王道を往き、今西錦司さんに師事をし、民族学博物館を創設し、そして、数多くの著作を上梓されている、知の巨人です。

旅についてのテーマでの座談会でした。お話になる姿には泰然とした風格を感じました。

今回、その時に務めていたエージェンシーの仲間が4名集い、この回顧展を見学したのです。梅棹さんの回顧展示を見ながら、途中の休憩時間には、昔の若かった頃の話で盛り上がり、再び、展示物に見入り、さらにまた、休憩時間に、いやというほど笑いあい・・・、学びと気づきと、そして、思い出の、充実した一日でした。(代表)

sIMG_7751.jpg 

sIMG_7753.jpg

sIMG_7754.jpg

sIMG_7756.jpg

sIMG_7758.jpg

sIMG_7760.jpg

そして、数多くの著作の中から、上の写真にある、「情報管理学」をアマゾンにて早速購入したのでした。(代表)

 


ビバ!太陽の塔!再会! [ヘルスツーリズム実践報告・山や旅の報告レポート集]

sIMG_7748.jpg

昨日、大阪の万博記念公園に行ってきました。そして、岡本太郎作の、太陽の塔とも再会してきました。意識して見上げるのは、小学校5年生の時の万国博の時以降はじめてかな・・? そして、 意外にも、知られていないのが、この太陽の塔の裏面のデザインです。

sIMG_7749.jpg

そして、なんとも大阪らしい、モノレールの車両のデザインも、なかなか「ナニワ」してまんな~。

sIMG_7745.jpg

これは、チキンラーメン↑

sIMG_7761.jpg

これは、大阪餃子の王将↑

やっぱり、ナニワは、濃いいでんな~・・・。

では、なんで万博記念公園に立ち寄ったのか・・?

それは、次のブログをご覧ください。(代表)


「幸運」について [ちょっと気になる素敵な文章]

「幸運」について

 

食事のとき、このごろ私は始終「アフリカの人のことを考えたら、雨の漏らない家に住んで、水が出てトイレが清潔で、乾いた布団に寝られて、毎日ご飯を食べられて幸せ」と言っている。

これだけの条件を叶えられている人間の生活は、地球上でまだそれほど多くはないだろう。

日本に生まれたというだけで、私たちはある程度、幸せを得てしまった。

そんなことは当然という人もいるが、私はどうしても当然とは思えないのである。

(曽野綾子・近ごろ好きな言葉より)


自然の価値と労働の価値 [ちょっと気になる素敵な文章]

 1960年代の終わりになって、公害や自然破壊が問題になりはじめたとき、私自身は傍観者であった。

第一に自然だけが破壊されているとはどうしても思えなかった。私が返してもらいたかったものは、かっての自然の風景であるとともに、人間の、そして労働と暮らしの情景だったのである。

自然の崩壊とともにこの世界のすべてが変わったのではなかったか。そして第二に、そんな私の思いが時代錯誤の懐古趣味にしかならない戦後的近代社会を私は問題にしていた。

もちろん、私もまた昔に戻せと言っていたのではない。流れゆく自然とともにあった、かっての労働の世界のなかには、いまとは違う労働の価値があったと言っているのである。

そして高度成長とともにすすんだ自然の変貌のなかで、労働もまた虚しいものになっていったと言っているのである。過去の形態ではない、私が取り戻したかったのは自然の価値と労働の価値である。

そしてそうである以上、私たちは、「資本主義」を、そうして戦後の日本的近代主義とそれを支えている自己の存在を問いただすしかないはずなのである。自分も自然破壊の加害者だといっているのではない。

私たちの中に浸み込んでいる近代主義的価値観、それとのたゆまざる闘争のなかからしか、自然とともに何が失われたのかはみえてこないのではなかったか。

(自然と人間の哲学・内山節)



内山節 ・ 怯えの時代より [ちょっと気になる素敵な文章]

 IMG_3967.jpg

変化が問題なのではなく、変化を進行させた時間量が問題なのである。

自然や人間が変化に対応してゆくには、そのとき必要になる時間量がある。自然は必要な時間量が保証されるなら、人間が自然を変化させても、その変化についていくことができる。

すなわち、自然の側も少しづつ変わりながら、新しい自然体系を生み出すことができるのである。ところが、対応できない速度で変化が加えられると、自然は荒廃してしまう。

同じことが人間にもおこる。町が少しづつ変わっていくなら、私たちはその変化に馴染むことができるが、その変化が急激におきると自分の暮らす町が失われたとしか感じない。

子供が大人になるには、ある程度の時間量が必要なように、すべての変化は対応していくのに必要な時間量が確保されたかどうかで、たとえどんな変化でも悪になってしまうのである。

今日の農村で生じたのは、まさにこの問題である。作物価格の低下も、それが十分な時間量を確保しておこなわれるなら、その間に農民たちは新しい農業体系や労働体系をつくりながら対応していくだろう。しかし、それが短期間におこれば、農業は壊滅的な影響を受ける。

市町村合併や金融システムの変化なども同じことだ。それらの変化に地域が対応していく時間量を確保してそれがおこなわれれば、人々は新しい地方行政と住民の関係をつくりだしたり、金融機関に頼らない庶民金融のかたちを創造したりしながら対応していく方法を生み出すだろうが、その時間量が保証されなければ、農山村社会は破壊されるばかりである。

(内山節・怯えの時代より)


” 爆発 ” の秘密・・4 ・ 岡本太郎 [ちょっと気になる素敵な文章]

simages.jpg

 

 

 

人間文化の歴史というものは確かに、まず環境、自然との闘いであった。しかしぼくはとりわけ素朴な古代文化、それを通しての人間像にふれるとき、これこそ“自然”ではないかという思いにつかれてならないのだ。

  

大地のひろびろとした拡がり、清冽な流れ、生い茂る樹木、あるいはそびえ立つ山と、

……そしてその中に闘い、生き貫いた人間文化。それはともに、“自然”である。

  

ぼくに言わせればむしろ人間という、“自然”の方が、一だんと濃い彩りのようにさえ思える。

   

そういう純粋な、逞しい自然としての気配から人間文化を引き離してしまったのは、いわゆる科学主義、合理主義であり、そしてその上に立った産業革命である。実はつい先頃といっても、より近い過去なのだ。ぼくはいつもそれを強烈に感じつづける。

  

いわゆる機械工業、能率、生産第一、植民地主義、近代社会がいかに誇らしく見せかけていても、人間存在を空しくし、歪曲化してしまったことは確かだ。いま先進国と称する国の、その第一線の都会で、いかに人々が暗い、空しい顔をしているか。

  

ぼくはこの時点でこそ、逆の発想を展開すべきだと思う。人間は本来、非合理的存在でもある。割り切れる面ばかりでなく、いわば無目的な、計算外の領域に生命を飛躍させなければ生きがいがない。

  

ただの技術主義だけでは空しい。進歩、発展に役立つという、条件づけられた技術ではなく、まったく無償に夢をひろげていくこと。ナマ身で運命と対決して歓喜するのがほんとうの生命感なのだ。

      

そのような全存在的充実感をとり戻すのでなければ、何のためのテクノロジーか、とぼくは思う。これはそのまま、真の生き方、人間性、つまり芸術の問題でもある。


” 爆発 ” の秘密・・、3 ・ 岡本太郎 [ちょっと気になる素敵な文章]

 simages.jpg

 

大自然の中で木の実を拾い、鳥・獣を追い、魚や貝を採って食べる生活から、農耕という技術によって、自然を改造して豊かな食糧を生産する。

 

やがて産業革命。大規模な機械生産。それに応じた社会の近代化。対応して人口爆発が起こる。

 

今年の発表では人口は50奥億だ。このまま行けば、やがて二十年もすれば、その倍になるという。そうなったら一体、人類の運命はどうなるのだろう。

     

今日すでにエネルギーの危機、環境破壊・汚染、さまざまの問題がつきつけられている。叡智をはたらかせてこの危機をのり越えたとしても、そうなるとますます人口は膨張してくる。

 

それに対応して生産システムの拡大。更にまた想像を超えたさまざまの試練が新たに発生するだろう。

 

まさに悪循環ではないか。この鎖を断ち切れないところに、いわゆる「進歩」の悲劇がある。

 

技術の歴史は合理的に編成して新しい秩序を作って来た進歩の道程だが、しかしシステマティックに、計算づくの面にしか及ばないところに現代のテクノロジーの限界があるのではないか。

===================

まさに、今の原発事故、その後の国の狼狽ぶりを予見していたかのような文章でもある。


” 爆発 ” の秘密・・2 ・ 岡本太郎 [ちょっと気になる素敵な文章]

 simages.jpg

現代の経済は近代科学のもたらした進歩、社会的諸条件の結果てある。通信、交通、その他あらゆるコミュニケーションシステムの発達、それが…世界を一体にするような経済を可能にしている。 

                    

 ところが、それがある時点にまで達すると、絶望的状況になってくる。この時点でこそ、情報とはいったい何だろうという問題をもっと人間的に、とことんまで考えなければいけないのだ。   

                     

コミュニケーションというのはそもそも本質的に無条件なものだ。無償、無目的であるべきものだ、とぼくは考える。ところが今日では、すべてが経済的メリット、それに材料を提供するというだけの面で処理されてしまう。 

                                                                

そこに人間存在の孤立化を逆に拡大しているという感じが生まれてくるのだと思う。たしかにその空しさを、危険を、みんな漫然と感じている。たから情報とは何かという問いが一種の批判の変形としてくり返して見せられるのだ。 

  

                                                                

さっき、政治・経済・芸術のご三権分立と言ったが、「芸術」を「人間」と言い替えてもよい。無条件で生きる人間、最も人間的に純粋に燃焼する、つまり芸術家が、政治、経済と相対し、抵抗する権威、力をとりもどすべきだ。芸術=人間の復権。

   

                                                                

いささか夢のような発言に聞こえるかもしれないが、緊急の課題である。

  

                                                              

ほとんどの人は政治、経済だけが価値であり、社会の現実だと思って生きているようだ。条件のみの上に成り立つ世界。それでは人間は空しい。駄目になってしまう。

   

                                                                 

人間の生命、生きるという営みは本来、無条件、無目的であるはずだ。何のためにこの世に来たのか。そして生きつづけているのか。本当をいえば、誰も知らない。本来、生きること、死ぬことの絶対感があるだけなのだ。

  

                                                               

現在の文明が自然のバランスを破壊し、危険な、破滅の方向に向かっていることは疑いようがない。ぼくは世界の各地を旅行して、いわゆる先進諸国よりも、むしろ経済的な意味での後進国の方に限りない魅力をおぼえる。

   

                                                                   

GNPは低い。人々はぎりぎりに生きている。しかし、ふくらんでいる。彼らの生活、現在の精神状況にふれ、また過去の文化の遺産をてらしあわせてみても、はっとするほど豊かで高貴なものを感じとる。

                                                                 

もし人間性をいうなら、そこにこそなまなましい人間の息吹がある。人類は不思議な運命を負うて進んで来た。他の動物とはまったく違った、矛盾にみちた道。直立歩行して手を使うようになり、知能が発達して、驚異的な文明をひらいて行った。                                                                 

それはたしかに、輝かしい栄光にみちた足跡だったが。しかし、いわゆる文明の進歩とともに、人間の生き方は次第に激しく引き裂かれはじめる。


” 爆発 ” の秘密・・1、岡本太郎 [ちょっと気になる素敵な文章]

simages.jpg

生きる--それは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろうが、生命力というものは」盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどといってい巨大な部分は非合理である。

  

われわれはこのに何故生まれて来て、生きつづけるのか、それ自体を知らない。存在全体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。

  

 だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。

  

人類はその、ほとんど盲目的な情感に賭けて、ここまで生きぬいてきたのだとぼくは思う。

  

ところが科学上義・合理主義は割り切れたものだけしか問題にしない。そのシステムによって動く現代社会、産業経済機構のなかで、すべては合理的に、また目的化される。

“生きる”ということの非合理、猛烈な情感は顧みられない

 

ほとんどの現代人はこの存在のなかの芸術家を圧殺している。だから人々は疎外され、知らず知らずに絶望しているのだ。絶望しているということさえ知らないほど、深く、空しく。

  

確かに交通は便利になり、生活は保証されている。しかし物質的な繁栄とか、「幸福」などというもので人問がみたされるはずはないのだ。人間が生まれてきて、一番痛切つかみとらなければならない、

生命感” というものが、そのために逆に遠ざかり、見矢われてしまう。

  

現代は情報社会だという。実際、情報機器やシステムの進歩は日進月歩どころか秒進分歩だ。さまざまの分析や提言もなされている。しかしいつも何かもの足りない思いがする。情報がとかくエコノミカルな視点から取り上げられているように思えるからである。

    

エコノミー(経済)といっても、いわゆる商業、工業など物質的財の生産、配分という人問活動のジャンルとして見ることもできれば、人間の生活自体がすべてエコノミーであるという捉方もできるはずだ。

  

その意味では当然、芸術、学問、宗教、人間の精神活動、すべてが経済の範囲に入るのだ。

    

たとえば芸術は人間エネルギーの強烈な消費、還元である。

  

情熱を噴出させる歓喜は消費であり、安らぎと充実による恍惚感は蓄積だろう。

   

それを経済とは普通わない。しかしあくまでもそれは人間社会におけるダイナミズムの根源である。芸術はその純粋で象徴的な表情なのである。

 


夕暮れ時のコーラン(イスタンブールにて) [ヘルスツーリズム実践を映像で紹介]

イスタンブールの下町を歩いていたら、唐突にスピーカーから、夕暮れ時のコーランが流れてきました。思わず、歩きながら、その 『音』 を 撮影していました。(代表)


内なる巡礼 [ちょっと気になる素敵な文章]

内なる巡礼
                                                                             平均標高四千メートルを超えるチベット高原の西はずれに、カイラスと呼ばれる山がある。万年雪を抱いたこの山は、インダス河やブラマプトラ河といった、アジアの大河の源流地帯に独立峰として屹立している。
                                                                               チベット仏教徒やヒンズー教徒たちにとってこの山は聖山であり、巡礼の目的地でもある。現在でも多くの巡礼者たちが、徒歩や五体投地と呼ばれる巡拝スタイルでこの山を目指している。はじめて五体投地を見たとき、信仰への強烈な力と時の概念のギャップに呆然とさせられた。


  五体投地は、まず自分の体を地面に投げだす。そして尺取り虫のように起き上がり、また体を投げだす。延々とこの動作を繰り返しながら聖地へと向かうのであるが、一回に背丈分くらいしか進まないので、一日にほんの数キロ程度しか動けない。
                                                                          全身埃まみれの服は、肘や膝の部分がボロボロになっていて、額から血を流している人もいる。聖山カイラスは、チベットでも隔絶された辺境の場所にあるので、巡礼に一年以上かける人もいると聞く。
聖地への巡礼者は、所属する社会をひととき離れ、自らの精神と肉体に負荷をかける。その苦行の果てには、心の充足感という信仰上の至福の瞬間が待っている。


  日本でも巡礼が静かなブームらしい。私の周りでも西国八十八ケ所を巡った人の声を聞く。失恋の痛手を癒すために、野宿しながら歩いてきたという二十代女性がいる。
                                                                           先立たれた息子の写真を胸に、六十代の女性はゆっくりと札所を巡ったという。気がついたらお遍路の仲間入りをしていた倒産会社の社長もいた。
                                                                            リタイアした五十代後半の夫婦は、ウォーキングの延長として仲睦まじく歩いている。旅立つ動機はさまざまだろうが、信仰無き時代にもなぜ巡礼路は人々をそこまで引き寄せるのだろうか。
                                                                            物の不足をあまり感じることのない日常生活。しかし、ふとこれまでの人生を振り返った時、満たされていない心に気がつくことがある。何か人生で置き忘れたものはないだろうか。大切な何かを失ってはいないだろうか……。
                                                                         目には見えない心の不足感に気がついたとき、人は巡礼路へと旅立つ。それは自分の心の辺境にある空白地への旅ではないだろうか。
                                                                             清水代表著・旅の達人地球を歩く よりの抜粋


アジアの宇宙観の伝承 [清水代表に関連する記事]

アジアファッション素材の宝庫だと思う。

                                                                                                                           特に辺境部に住む少数民族の女性が担う染織技法にそれを感じる。男性の民族衣装の多くは機能性重視のデザインであり、文明化が進むにつれて画一化してゆく傾向にある。

 

なぜ辺境部の女性は、独特の色彩と配色で質の深い衣装を保っているのか、とインドネシアのヌサテンガラ諸島を旅しながら考えていた。観光地で有名なバリ島の東に点在するロンボク、スンバ、フローレス、ティモールなどの島々である。

 

各島で伝統的な技法でつくられるイカットと呼ばれる絣の腰巻スカートは、独特の文様、色彩、配色があり、欧米のデザイナーも注目している。いまや絣を意味する世界共通語にさえなりつつあるイカットは、インドネシア語で「くくる」という意味がある。

 

スンバ島の農村でイカットの機織りの現場を見た。朝の家事を終えた女性が、木陰に置かれた織り機に座っていた。傍らには母の手元を眺めている女の子。女性が座るゴザの横で鶏がエサをついばんでいる。

 

高床式の家の下から涼しい風が吹き抜ける、まことにのどかな光景である。 ふと気が付いた。彼女は描かれたデザインを見ながらではなく、黙々と手元だけを見ながら織ってゆくのだ。頭の中には文様の完成図がイメージされているのだろう。

 

スンバ島独特の文様は、動物を多用する特色がある。 ワニやニワトリ、馬、亀など、すべて精霊が宿るとされる生き物である。自分の母親の手元を見て、その文様の織り方を覚えたと彼女は言っていた。その彼女の手元を娘らしき少女が見ている。

 

アジアに残る独特の染織の多くは、タイ北部やインド、中央アジアの辺境部に住む女性の手による。彼女らの多くは、独自の精霊や祖霊の存在を心に宿しながら生活している。

 

科学的にものごとを判断しがちな男性に比べ、女性は感性が鋭く、現実を超越する事柄にも柔軟である。言葉や図柄では表現できない、彼女たちの宇宙観が手先の動きによって伝承されてゆくのだろう。

 「イカット=くくる」という言葉からは、母と娘の心と心を紡ぐ意味も感じる。紡がれた心から生まれる文様や色彩は、心の無形文化財としていつまでも伝承されていってほしい。

 

 (清水正弘・旅のエッセイ・こころのコンパスより抜粋)


メッセージを送る

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。